その9

「学力テストの成績の全国順位があがらなかったら校長のボーナスを行政が査定する」というニュースがあった。まさしく、日本人のナンバーワン主義の極みである。

このことを現場にあてはめてみよう。校長は教師に生徒に勉強させるように指示する。教師は、生徒に勉強をさせることを自己の目的とする。授業時間は履修のための要素があるので、そこを中心として受験も踏まえて授業をおこなう。しかし、それでは時間が足りない。成績の振るわない生徒には補習を、成績上位者には講習をしようとする。

では、その時間は?放課後ということになる。放課後には部活がある。ならば、活動を学校の方針として制限し、生徒に勉強をさせる。学校は学校ではなく予備校になっていく。「今(中学生)から、勉強しておけば東京大学に合格できる」と言う教師、「休み時間も勉強しろ」という教師が現実に存在しているのは事実だ。そういう教師ばかりになると、生徒も勉強のみの学校生活するのが学校だ、と思ってくる。教師は、勉強する生徒を誉める。部活は、良い成績がとれていれば参加して良い、と言う。さらに、生徒の親も教師と同じ考えをもつ方々が多くなる。

学校とは、何なのか。私は、社会にでる前の社会規範をつくる場所だと、思う。社会規範とは、人と触れあいながら、人を思いやり、人とのトラブルを解決していく力をつけることだ。この力は部活でしか得ることはできない。

このことを教えない学校に存在の意味はない。だから、どんどん、部活に入る生徒が少なくなっている。帰宅部が当然のようになっているのを学校は大きな問題としてとらえないのが不思議だ。これらすべての根源はナンバーワン主義であり、それをさせているのは行政であることに、学校は気づいてほしいものである。

こんなことを言っても、「じゃあ、進学実績がなくて生徒が集まりますか」と一蹴されてしまうのがオチです。ぶつぶつぶつ…。

I記 2019/1/31

その7。

日本人は、順位をつけたがる。上位になるためには、色々な手段を使う、「ゆるキャラコンテスト」では、3万票を組織票として主催者側が無効としたのは、ごく最近の出来事である。組織票をどの基準で判断したかは?であるが、自分が推すキャラを一番にすれば、その地域に人が集まる、という予想は悲しいくらい切実だ。

アイドルファンはもっと悲しい。自分の好きなアイドルの握手券付きのCDをダンボールいっぱいを購入し捨ててしまう。この購買状況がアンドルの人気コンテストで優位にはたらくように願う。マスコミの姑息な戦略にのせられているのも分かっていても行わざるをえない、切ない、切ない行為である。

食事もそうだ。外国のタイヤメーカーが、はじめて☆をつけたラーメン屋には翌日、その店は大行列の店になる。パンと肉を主食に生きてきたヨーロッパ人が旨いと判断する食べ物に日本人が盲信するのは、全くおかしな話だ。

TVのタレントが「おいしい!」と言ったお菓子を、翌日、コンビニは多量に仕入れるのは、チュッピリ分かる気もするが、所詮、それもタレントの趣向だ。チョコレートの嫌いなタレントがクライアントであるチョコレートをまずいとは言わないのと同じである。

高校演劇の順位も、これらと同じである。

そう、つくづく思うこの頃です。ぶつぶつ…。

I記・2018/11/28


その5。

アマチュアスポーツ界が騒がしい。

反則行為を見ているのに、見ていない、という厚顔無恥コーチがいる。

自分を「世界の○○」「私はカリスマ」という破廉恥な会長がいる。

少女の人生をかけた言葉を「すべて嘘」と断ずるどうしようもなく軽率な長がいる。

この輩の行動、顔面をみていると、選手を1番にしたのは自分だ、私を褒め称えよ、という輩の声がはっきり聞こえる。そこには、懸命に自分の技量を高めていこうとする若者への思いやりのかけらもない。権力という魔物に、人間という尊厳を奪われていることに気づいてはいない。なんと愚かな者たちだろう。そして、権力が揺るがされそうなると、保身のためにあらゆる手段をとる。

だから、若者の心を潰すのは、いつの時代も権力をもつ大人である。

権力は人の人生の力で変えていく。その権力を行使するのは人間である。権力は強く、怖い存在だ。しかし、その権力を人間の立場にたってもちい、人々を幸せにしていった優れた方も多くいらっしゃる。

私は、この権力に立ち向かう生き方を、ともに芝居をつくっている生徒に教えていきたい。

抗議すべき時に抗議しないのは卑怯者である。この抗議の姿勢を芝居づくりの過程から学んでいってほしい。生徒が社会にでたとき、駄目なものは駄目、とはっきり言える人間であってほしい。権力に立ち向かう人間であってほしい。

と、強く願い、今日も稽古、稽古である。

スマホばかり見てるんじゃないぞ、と、ぶつぶつ言いながら…。

(2018//1・I)




その4。

先日、大道具制作のために「ラテックス」を購入しました。

ラテックスは、特撮の怪獣をつくるときや、ゴムマスクをつくるときに使う塗料だそうです。
なるほど、テレビや映画に出てくるものは、こういう素材を使って作られているのだなあ…と感心しました。

思えば、演劇部の顧問になってからというもの、色々なことを学んできました。
本番中の舞台裏はすさまじいこと、木材を切ったり釘を打ったりするのは難しいこと、ヤシの木は段ボールで作れること…など。

教員になって、まさかこんなことを学ぶことになるとは。

何が起こるかわからないから人生っておもしろい、
とはよく言いますよね。
おもしろいかどうかは別として、
確かに、何が起こるかわからないのが人生です。

演劇部の顧問になって8年目となりました。
まさか自分が演劇のことを考える人生を送るなんて考えてもいませんでしたが、
今では、演劇のこと(演劇部のこと?)を毎日考えています。
そして、演劇を通して世の中のことをたくさん学ぶようになりました。

何が起こるかわからない人生、そして何が起こるかわからない演劇、
楽しんでいこうと思います。

(2018年8月30日/ Y記)


その3

本校は、区立児童館や小学校で公演をします。
作品は、親と子のためのミュージカル・鈴木完一郎作『カレーライス物語』です。

作品は、大きな鍋の中で、カレーライスができるまでのお話です。
イモ、ニンジン、タマネギ、そして、牛肉が鍋に入れられます。
牛肉は、自分だけは身が残る、野菜たちは溶けてなくなる、と野菜を疎んじますが、
その牛肉も野菜とともに新しい生命になるんだ、と心が洗われていく、という物語です。
そのお話を、歌と踊りをいっぱいつめこんで演じます。

時には、子供たち(だいたい、幼児から小学4年生くらいが中心です)に
「嘘泣きだぁ」
「歌へた!」
などと演技中に言われることもあります。

これは、部員には、良いことです。
芝居とはその役になりきり演じることです。観客の気持ちを考えて演じなくてはならなのです。
そうすれば、人の心は動きます。純粋な子供の心が動かないというのは、稽古が足りないからなのです。
恥ずかしことなのです。ですから、稽古が厳しくなります。

この公演を、26年前の1992年から始めて、今年で54回になりました。
我ながら、よくやってきた、と思います。

なぜか?

今年の公演の時です、6歳の男の子と女の子が、
一番前に体育座りのまま、70分の芝居を食い入るように観てくれていました。
その小さな背中が、かわいさを通りこして、とても美しいのです。
私は、激しい稽古も報われる思いでした。また、演じたい、と思いました。
確実にその子供の心が動いているが分かるのです。
芝居って、すごいです。そういう芝居をつくり続けていきたい、と強く思いました。

ですから、最近の、圧倒的に多い、
観客不在の自己満足にひたる高校演劇は、どうした‥と、言いたのです。

ぶつぶつぶつ‥。

(2018/6/27 I記)


その2

みなさん、こんにちは!

HPを長らく更新しておらず、
OG・OBをはじめ、HPをご覧いただいている皆様には
大変ご不便をおかけしました。

学校のPCが新しくなったことで、HP作成のソフトをインストール・設定するのに
手間取ってしまい、HP更新に時間がかかってしまったのです。
…言い訳です。
申し訳ございませんでした。

それにしても、デジタルな世の中になりましたね。
学校教育でも電子黒板やタブレットを使用した授業がおこなわれるなど、
時代はどんどん進んでいくなぁと実感します。
確かに、デジタルってわかりやすいですよね。

そんな中で演劇部の顧問をしていると、

「人に伝わる話し方ってなんだろう?」
「こんなとき、人はどんな感情をもち、どんな表情をするのかな?」
「人って難しいなぁ」

と常に考えるので、演劇ってデジタルとは違う世界にあるのだなぁと思ってしまいます。
簡単にはいかないし、時間がかかるし、生ものだし…
だからこそ、おもしろいんですね。

「10年後に消えてしまう職業」が研究機関から報告されていますが、
演劇(や役者さん)は絶対に消えないと思います。

…って、当たり前ですかね。

(2018年5月28日/ Y記)



その1。

こんなことがありました。
高校演劇発表会地区大会の時の話しです。二十年前頃の話です。
その当時、私は地区担当であり、発表会の会場も本校でした。

その大会の参加希望を募った時です。初出場の学校がありました。
 打ち合わせには女子生徒が一人きました。そして、その生徒は、こう言いました。
「部員は私ひとりです。緞帳をあけて、明かりをつけてくれれば良いです。参加させてください」と。
 私は、そのキラキラ輝く女生徒の瞳を覚えています。私は、その女生徒の芝居づくりへの熱い思いに感動しました。

そして、私はこう言いました。
「スタッフを本校の部員が行う、ということを承知してくれれば良いよ」と。
女生徒は、眼を潤ませて「お願いします!」と大きな声で言いました。
私は部員全員を呼び、その学校の舞台監督の任、舞台装置の製作、照明・音響のプラン、操作、の要請をしました。
部員は、当然のことのように頷き、女子生徒との打ち合わせを始めました。上演作品は、宮本研作『花いちんもめ』です。       

当時は、地区大会においてリハサールを行える時間がどうしてもとれず、ぶっつけ本番です。
舞台装置は2間幅の八百屋と山の書きわり、照明・音響もかなりの数になりました。
その女生徒にとって、初めてみる舞台装置、初めて体験する照明・音響効果に、間違いは多くありました。しかし、女生徒は、自分で縫った白色の行者着と脚絆を身につけ、生き生きと演じていました。4名の審査員の方々も本校の生徒が裏方を固めていることをご存知でしたが、笑顔で部員の行動を見てくださいました。そして、公演が終わり、女生徒は、大粒の涙を流し、本校の部員にお礼を言い続けていました。
 芝居っていいなぁ、と思いました。だって、人が人と助け合っている姿は尊いと思うからです。

こんなことは、昔話になりました。
 現在、大会では、照明操作が分からない生徒に会場の生徒が操作を手伝うとペナルティーになります。それは規約にあるから正論なのです。正論を言う人は良い。自分は権力という堅い後ろ盾があるから自分を正当化でき、人を罰することができからです。
でも、正論で芝居は造れるのか、とつくづく規則、規則、正論、正論、という方が多い昨今の高校演劇に、ぶつぶつ言いたい私がいます。ぶつぶつ…。

 でも、セイロン茶は大好きです。          (2018/4/28/・I記)